Fukuoka Holdings Inc.

黒田官兵衛

別名 : 孝高(よしたか)、如水(じょすい)
黒田官兵衛
代表取締役会長
黒田官兵衛(くろだ かんべえ 1546-1604年)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らに頼りにされた名将です。天下統一により、筑前国福岡藩の初代トップに任命されました。官兵衛は軍事的な才能に秀でており、その才能ゆえに上司である秀吉や家康からも家臣からも信頼されます。部下の育て方も上手で、切腹や死罪を命じたことは生涯を通じてありませんでした。引退してからは屋敷に身分の低い子どもたちが遊びに来ても、とがめることなく招き入れ家の中で遊ばせるほど器の大きい武将です。また、官兵衛は軍師としての評価の他に建築の手腕も評価が高く、築城の名手として三大築城名手とされています。

黒田長政

黒田長政
代表取締役会長
黒田長政(くろだ ながまさ 1568-1623年)は、黒田官兵衛の長男で、父と共に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えました。長政がもっとも活躍したのは関ヶ原の戦いです。徳川軍についた長政は、鉄砲の優秀な部下を多く味方に引き入れて、前線で戦に真っ正面から切り込む役目を果たしました。武力だけでなく、親戚を通じて敵側の武将と連絡をとり、徳川軍へ寝返るように水面下で交渉するといった情報戦でも活躍を見せています。家康は長政を関ヶ原の戦い一の功労者として認め賞賛しました。

井上之房

通称 : 九郎右衛門(くろうえもん)
井上之房
長い間会社に貢献し続ける総務
井上之房(いのうえ ゆきふさ 1554-1634年)は、黒田官兵衛の父である職隆、官兵衛、官兵衛の長男である長政、長政の息子の忠之と、黒田家4代の主に仕えました。黒田二十四騎の中でもさらに武功を立てた「黒田八虎」の一人です。官兵衛が兵庫県の有岡城に幽閉された時、井上之房は、栗山善助・母里友信と共に、一致団結して黒田家を守ることを決意し、潜伏し中の様子を探ったこともあります。また、之房・善助・母里の3人は、宇佐神社の造営にあたるなど戦い以外でも活躍しています。

小河信章

小河信章
グローバルに活躍し名声高き営業
小河信章(おごう のぶあき 1554-1593年)は、黒田家に小姓として仕え、10代で戦に初出陣しました。黒田家の城主であり黒田官兵衛の息子である長政とともに朝鮮出兵に参加した際には、混乱の中で城を守りきり、豊臣秀吉の家臣だった小西行長(こにし ゆきなが)から「日本一の勇士」と高く評価されました。そのはたらきは日本にいた秀吉にも伝わり、「直々に1万石を与える」と伝令を出しています。しかし信章は帰国の道中に命を落としてしまい、秀吉からほうびをもらうことはできませんでした。

菅正利

通称 : 六之助(ろくのすけ)
菅正利
現場からの叩き上げで多くの実績を積む現場監督
菅正利(かん まさとし 1567-1625年)は当初、雑用係である小姓として黒田官兵衛に仕えていました。2メートルを超える大男で剛力の剣豪、17歳で羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いでは大活躍しました。文禄・慶長の役でも大活躍し、その勇猛さから朝鮮には「正利は虎を斬った」というエピソードが伝えられました。戦いだけでなく、干拓工事や水田開発にもたずさわって黒田家に貢献しています。また怪力が知られる一方で、茶道をたしなむ茶人としての顔ももっています。

衣笠景延

衣笠景延
義理や縁を大切にして商談を成立させる営業
衣笠景延(きぬがさ かげのぶ 1553-1631)は、知恵をめぐらし、頭を使って策略を練った戦い方をしたり、敵に囲まれた仲間を救出に行ったりと、知恵をめぐらす義に厚い武将です。黒田八虎のひとりである栗山利安が敵を深追いし、包囲されて戻れなくなった時に果敢に救いに行きました。また、引退してからは卜斎(ぼくさい)という号(ペンネーム)を用いて和歌を詠むなど文武両道の武将として有名です。

桐山信行

桐山信行
取引業者とも良い関係を築き、自社を発展させる企画職
桐山信行(きりやま のぶゆき 1554-1625年)は、文禄・慶長の役でも戦功を挙げ帰国した際に黒田長政の使者として豊臣秀吉の元を訪れ、優れた祝辞を述べたため、褒美として甲冑を授けられました。その後も戦では順調に手柄を立てて出世しました。戦だけでなく、当時交通の難所といわれていた冷水峠(福岡県)を開通させるなど、宿場町を栄えさせる土木工事にも尽力し、今でも信行をたたえる石碑が残っています。

栗山利安

通称 : 善助(ぜんすけ)
栗山利安
社長を支え、そして部下を育てる専務
栗山利安(くりやま としやす 1550-1631年)は、黒田二十四騎の中でも特にすぐれている黒田八虎の一人であり、黒田官兵衛が最も信頼を寄せる部下です。官兵衛の側近として仕えた利安は、戦上手で、勇士としての働きや采配としての指揮に優れ、多くの大きな功績を挙げました。福岡藩の筆頭家老という身分を得てからも、利安は万事が控えめで人柄は素朴なままでした。道で出会った人には、身分の上下に関係なく必ず馬から降りて挨拶し、決して礼を失わず、寡黙な人物だった。また、驕りが無く質素倹約な生活をし、困っている人には惜しみなく金銭の援助をしました。

黒田一成

黒田一成
控えめで社長を影で支える秘書
黒田一成(くろだ かずしげ 1571-1656年)は、黒田二十四騎の中でも特にすぐれている黒田八虎の一人です。黒田家の城主である黒田官兵衛は一成の父に恩があり、一家が戦に敗れた時に彼の命を救うため、一成を養子として迎えました。官兵衛の実の息子である長政にも忠誠をちかい、黒田家が戦で敗走する時には、長政の影武者になろうと自ら申し出ています。身長180cm以上の大男でかたい鹿の角を引き裂けるほどの怪力でしたが、温厚な性格ゆえ、戦の手柄を立てても自慢するようなことはありませんでした。ともに育ち、その後主君となった長政に遠慮していつも控えめにしていました。

黒田利高

黒田利高
代々社長をサポートする常務
黒田利高(くろだ としたか 1554-1596年)は黒田八虎の筆頭的存在で、黒田官兵衛、黒田利則、黒田直之とは母親の違う兄弟の関係にあります。利高は、官兵衛とともに豊臣秀吉に仕え、馬廻(うままわり)という騎馬の武将として戦に参加しました。そして官兵衛のすすめでキリシタンの洗礼を受け、その後は豊前中津(現在の大分県中津市)城主としてその地方をおさめました。官兵衛の没後は、官兵衛の息子で利高にとってはおいにあたる黒田長政の後見役としてサポートを務めています。

黒田利則

黒田利則
出向経験を活かし社長をサポートする品質管理
黒田利則(くろだ としのり 1561-1612年)は、黒田二十四騎の中でも特に優れた黒田八虎の一人です。黒田官兵衛、黒田利高、黒田直之とは母親のちがう兄弟の関係にあります。当初は豊臣秀吉に仕えていましたが、兄の官兵衛が九州に来てからは黒田家臣となり活躍しました。関ヶ原の戦いでは中津城を守り、長政が福岡藩主になると周辺の城の城代を任されるようになりました。官兵衛の没後には、福岡県にある崇福寺に官兵衛の肖像画をおさめ供養し、後世に大切な記録を残しました。

黒田直之

黒田直之
異文化やグローバルな情報に詳しい通訳・広報
黒田直之(くろだ なおゆき 1564-1609年)は、黒田二十四騎の中でも特にすぐれている黒田八虎の一人。黒田官兵衛、黒田利高、黒田利則とは母親の違う兄弟にあたります。兄の利則とともに豊臣秀吉に仕え、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いに参加してかつやくしました。キリスト教に深い関心をよせていて、ミゲルという洗礼名をさずかりキリシタン武将となっています。奉公先(勤め先)を失って浪人となったキリシタン武将仲間をかくまったり、自分のお金で広島城下の教会を再建するなど、信仰心のあつい武将です。

毛屋武久

毛屋武久
現場経験が豊富な経営企画
毛屋武久(けや たけひさ 1554-1628年)は、幼い頃に戦で父を亡くし、書家(書道の専門家)に養育されました。成長してからはさまざまな主人のもとを渡り歩きましたが、最終的に黒田長政の家臣となります。戦の経験は豊富で、関ヶ原の戦いではその知恵をかわれ、黒田軍から徳川家康のもとに直々に呼び出され意見をきかれるほどでした。毛屋という姓も、黒田家に仕える前に越前国毛屋畠の一揆を鎮圧したほうびとして、織田家に仕えた武将の柴田勝家から与えられたものです。

後藤基次

通称 : 又兵衛(ごとう またべえ)
後藤基次
己の技術一本で乱世を生きるエンジニア
後藤基次(ごとう もとつぐ 1560-1615年)は、黒田二十四騎の中でも特にすぐれている黒田八虎の一人です。戦においては、鉄壁な強固な城を攻める際、亀甲車なる装甲車をつくり城壁を突き崩し、先を争って突入し城攻めを攻略しました。また、関ヶ原の戦いでは剛槍使いの武将と一騎討ちで討ち取る武功を挙げ、知略も武力も共に優れた武将でした。幼い頃に父を亡くし、黒田家の城主である黒田官兵衛に育てられた基次は、長政と折り合いが悪く、官兵衛の死後まもなく黒田家を離れてしまいましたが、その後、江戸幕府と豊臣家の戦である大坂の陣で、豊臣家の浪人として活躍しました。

竹森次貞

竹森次貞
実戦経験や現場での知識を活かした広報
竹森次貞(たけのもり つぐさだ 1550-1621年)は、播磨国(現在の兵庫県)にある日岡神社に生まれました。しかし神社が襲撃されて全焼、兄も戦死し、逃げ延びた父とともに黒田官兵衛に仕えました。戦いでは武将のサポートを中心に功績をあげますが、ある時の戦いで左手を手首まで斬られるという大怪我を負ってしまいます。その後は旗奉行という役目を任せられ、武勲をあげるのとは違うかたちで黒田家に貢献しました。旗奉行は、戦国時代の戦場において通信手段としても使われていた旗やのぼりといったアイテムを管理する役目で情報の要でした。

野口一成

通称 : 左助(さすけ)
野口一成
戦でも築城でも創意工夫に長けているエンジニア
野口一成(のぐち かずしげ 1559-1643年)は、寺の僧だった父が黒田官兵衛と囲碁仲間で親しく、その縁で元服後に黒田家の家臣となります。怪力で有名な城井鎮房との戦いではその家臣7人を斬る活躍をみせます。関ヶ原の戦いでは体の左半身に複数の傷を負ったため、以後は通称を左助(さすけ)と変更しています。これは、左側で攻撃を受け流して相手に強烈な突きを放つ戦法を繰り返して敵を討ちとっていたせいでした。また、福岡城を築城する際は、石垣普請奉行として活躍。堅牢な守りを実現した石垣によって、石垣積みの名人という称号も獲得しました。

野村祐勝

通称 : 太郎兵衛(たろうべえ)
野村祐勝
地盤を築いて会社を存続させる人事
野村祐勝(のむら すけかつ 1560-1597年)は、黒田八虎の一人である剛力の武将、母里友信の異母弟(母親の違う兄弟)です。戦ではたびたび大きな功績をあげ、黒田家の城主である黒田長政とともに非常によく戦いました。戦場では武勇が高く、黒田長政の軍勢を追撃してきた700騎の敵に、祐勝ただ一人で戦場に残り、敵は「まだ多くの敵軍が残っている」と勘違いし追撃を諦めて引き返したこともありました。病気で若く亡くなってしまいましたが、祐勝のはたらきにより、代々の子孫は福岡藩の重臣として地位を築くことができました。

林直利

通称 : 太郎右衛門(たろうえもん)
林直利
インパクトのある取り組みを成功させる企画職
林直利(はやし なおとし 1569-1630年)は、もともと武田氏の家臣でした。長篠の戦いで敗北してから家族で移住し、のちに小姓として黒田官兵衛に仕えます。史上初となる槍での虎狩りを成功させ、黒田長政から「虎衝(とらつき)」という称号をもらいました。戦では数々の功績をあげ、黒田家の家臣の中で唯一、自宅に二階建ての門をかまえる許しを得ました。戦争ですべてを失った少女を見つけて連れ帰り、自分の娘のように養育したという一面もあります。里と名づけられた娘は、成長してから髪を落とし、尼になりました。

原種良

通称 : 弥左衛門(やざえもん)
原種良
ふだんは目立たないが忙しい時に大活躍する敏腕の事務
原種良(はら たねよし 1557-1639年)は豊臣秀吉による九州平定の際、黒田官兵衛に人質として出されてその案内役を務めました。当時は別の姓を名乗っていましたが、のちに黒田家の家臣となる時に「姓の読みが長い」といわれたことから改姓して「原」になったといういきさつがあります。ふだんは、連歌をたしなむ誠実で真面目な性格。しかし戦の時には非常に勇敢であり、田んぼに落馬した時には大声をあげながら田んぼの泥から馬を引き上げました。

久野重勝

久野重勝
企画や営業の難問題を数字で解決する経理
久野重勝(ひさの/くの しげかつ 1545-1592年)は、父の重誠とともに城主である黒田職隆に仕えました。仕えたその年に起こった青山・土器山(かわらけやま)の戦いで父を失い、家督継承者となっています。戦では、クリーム色の馬に乗ってさっそうと駆ける姿が敵と味方を驚かせ、豊臣秀吉も重勝の武将ぶりをほめました。数字に強く、名護屋城(佐賀県)を築城する際は区画整理やトラブルを、理性的に解決していきました。2014年には、重勝が秀吉から与えられた日本最古のモデルとされるそろばんが発見されています。

堀定則

通称 : 平右衛門(へいえもん)
堀定則
実力があり豪腕な傍若無人な営業
堀定則(ほり さだのり 1557-1636年)は、黒田長政家臣の家来でしたが、戦で功績をあげて直接の部下に取り立てられた藩士です。黒田八虎のひとりである栗山利安の娘と結婚しています。戦場で多くの手柄をあげましたが、一方で戦の陣中において先輩の武将と口論をしたり、藩の政治に独断で決定を下すなど、上司に従わない一面もありました。長政の没後は、その三男である黒田長興から筆頭家老として取り立てられますが、ふるまいが勝手すぎて、たびたび諭され、謹慎処分となった時期もあります。

益田正親

通称 : 与助(よすけ)
益田正親
下積みを長く務めて力を発揮する研究職
益田正親(ますだ まさちか 1542-1611年)は、貧しい農民に生まれましたが、黒田家の城主黒田官兵衛に見出され、下僕→薙刀持ち→徒侍(かちざむらい:徒歩で主君を守る下級武士)へと出世、農民から武士へと身分を変えました。益田という姓は、武士の身分となった時に共に与えられたものです。数々の戦に参加しただけでなく、石垣積みの名人と呼ばれた野口一成(のぐち かずなり)とともに福岡城の石垣普請奉行も務めました。自分の子どもと一緒に、黒田八虎の一人である栗山利安(くりやま としやす)の子を養子として迎え入れ、育てています。

三宅家義

通称 : 山太夫(さんだゆう)
三宅家義
話術や交渉力に長け、新たな販路を開拓する営業
三宅家義(みやけ いえよし 1548-1619年)は、黒田家の家臣となる前には主人の定まらない「渡り奉公」をしていました。黒田家の城主である黒田官兵衛に見出されたのちは、度胸のある戦いぶりで官兵衛を喜ばせています。一度は、「あのような小さな城を落とすのは自分にとって朝飯前です」と宣言をし、一人で乗り込んで敵を降伏させました。また、話術にもすぐれていて、黒田家の有利にはたらくように城井家から人質を出させたこともありました。仕事ぶりを認められて、水軍のリーダー的存在である船手頭にも任命されています。

村田吉次

村田吉次
社長と幼馴染で少し自分勝手な営業
村田吉次(むらた よしつぐ 1565-1621年)は、黒田家に少年の時から仕えた武将で、兄3人も同じく黒田家に仕えていましたが3人とも戦死したため、黒田官兵衛に可愛がられました。また、同年代の長政が人質として羽柴秀吉に預けられた際、付き人として同行し、一緒に人質生活を送ったため、長政とは仲良しでした。戦いでは、槍は免許皆伝の腕前で、らんぼうな性格が短所でしたが、敵に忍び寄って殺すなどスキルの高い戦いぶりを見せ活躍を続けました。

母里友信

通称 : 太兵衛(たへえ)
母里友信
コミュニケーション力が高い宴会部長
母里友信(ぼり とものぶ 1556-1615年)は、黒田二十四騎の中でも特にすぐれている、黒田八虎の一人です。同じく力の強さが有名だった野村祐勝(のむら すけかつ)とは、母親の違う兄弟にあたります。槍のあつかいが上手く、力の強い武将として有名でした。お酒にも強く、黒田家では友信に「フカ」というあだ名をつけていました。フカ(サメ)は大きな口を開けて海水を飲むために、その姿をもじってあだなをつけられたのです。大きな盃になみなみつがれたお酒を飲み干すことで、豊臣秀吉に仕えた福島正則(ふくしま まさのり)から「日本号」という槍を獲得したこともありました。

吉田長利

吉田長利
ミスや手違いなしにコツコツ成績を上げる営業
吉田長利(よしだ ながとし 1547-1623年)は、母が黒田家の主である黒田官兵衛にも授乳をしていたために、官兵衛と1歳違いの乳兄弟として育ちました。本来は八代という名字でしたが、早くに父が亡くなったため家老だった吉田重生の姓を譲ってもらっています。さまざまな戦いに出陣して、ケガひとつせず武功を挙げました。生涯唯一負傷したのは、関ヶ原の戦い後の富来城(大分県)攻めの時です。この時には、兜と歯茎に銃弾を受けました。武功によって長政から「壱岐守」という称号を与えられました。